お父さんと私④ こどもの結婚ほど切な嬉しいことはないのかな
夏頃の検査結果で、がんが小さくなっていることがわかり、父本人にも、家族にも安堵感が広がった。腫瘍マーカーの数値もだいぶ減った。
父は体調を崩す前まで、「和楽器バンド」をよく聞いていた。和と洋の融合した、新しい音楽に魅了されていた。毎日のように大音量でかかっていたこともある。退院してきてから、それがパタリと途絶えてしまっていたが、このころまた和楽器バンドを聞いて仕事している。その様子を見て私は少しほっとしたのを覚えている。
相変わらず抗がん剤治療の副作用はひどいので、何を食べても変な味がしたり、手先の感覚がおかしいかったり冷えすぎたりするので、手袋をはめてパソコンキーを打ったりしていた。
私はというと、やはり体に良いことをと思い、レイキを習いに行ったり、ビワの葉が毒素を出すのに良いということで、ビワの葉の温灸を母にすすめたり、とにかく身体によさそうなものをたくさん用意した。
父にしても、私たち家族にしても、何もできずに、ただ薬の効果を待つよりも、やってあげられることがある、自分でできることがある、というのは、その効果がいくばくのものか、ということは置いておいて、毎日の救いだったなあと思う。
この年、私たちは挙式を挙げることにした。入籍は半年前に済ましており、私たち二人としては、挙式をする気はなかったのだけれど、父にやりなさいと言われたら、やっておいたほうが良い気がして、行うことにした。父と私の体力を考えて、夏に挙式を親戚内で挙げ、披露宴は職場の方や友人等を呼んで冬に行うことにした。
父から「バージンロードと親への手紙は禁止」と、16歳の時から言われて育ってきたので、特段それをやりたいという気持ちもなかった。私たちは迷わず和装での挙式を選んだ。
当日、モーニングを着た父の姿は、やせ細っていた。義父と並ぶとそのひょろひょろとした姿が余計に目立った。身体の体調は良くなかっただろうけれど、挙式の日の父は穏やかに嬉しそうだった。自分の幸せな姿が、人のことを幸せにできるんだなあ。
冬の披露宴では、身体が冷えないか心配だったが、なんとか最後まで席にいることができた。手紙を読み上げることは父から禁止されていたので、最後に渡す花束のと一緒に、手紙を渡すことにした。
その時自分がどんなことを書いたか、細かくは覚えていない。ただ、自分に子供ができたときのことを書いていたと思う。もし私の子供ができたら、私も父も好きな絵本「とっときのとっかえっこ」の「ネリーとバーソロミュー」みたいに仲良くしてねと書いたのを覚えている。
人を幸せにする方法は、人に何かしてあげるだけではなく、自分が幸せな姿を見せることでもできるのだと思った。
なんだか平和だった。ころころ平和が戻ってきた。
お父さんと私⑭ 四十九日までにおきた不思議なこと
葬儀が終わり、一週間が過ぎたころから、なんだか不思議なことがちらほらと起きていた。
親しい人を亡くすと、こういうことはよく起こるのだろうか?今回は父が亡くなってから49日までに起きた、不思議なことを、とめどなく書いてみようと思う(怖い思いをさせたらごめんなさい(*_*))
①右手があたたかさを感じるようになった。
以前よく通っていた、ヨガに久しぶりに参加した時のこと。シャバアーサナ(仰向けで寝るポーズ)をしているときに、右手が日光に当たっているようなあたたかさを感じる。身体の内側からあたたかいのではなく、外側から照らされているようなあたたかさで、そのあたたかさを感じていると、泣きたい気持ちになった。それからそのあたたかさは続いた。時に痛いくらいに熱くなった。
②お供えもののリンゴに文字のようなものが浮かぶ。
父のお骨が実家に戻ってきたので、とりあえず仏壇に置いてあげていた(まだお墓を買っていなかったので)。そうすると、お供えしてあったりんごに、変な文字のようなものが刻まれたのだ。ひらがなでも漢字でもなく、あ、これはヨガの方でよく見る文字だ。サンスクリット語、と言っただろうか(間違っていたらすみません)。そのような文字体が2,3文字、りんごりんごに浮かび出たのだ。(ふたつお供えしていた、そのふたつともに出た)。
③おばちゃんに霊視される
霊感のあるおばちゃんの経営しているお風呂やさんに、母を連れて行った時、「ごめんね。どうしても聞こえてきて」と言っておばちゃんは母に何か話した。どうやら、父と母しか知らない思い出のことを父がおばちゃんに話してきたらしい。母はそれを聞いたとたん、泣いていた。
おばちゃんによると、父は身体がなくなって、病気で苦しむこともなくなっているということだった。お母さんのことは抱きしめてあげたいんだそう。身体がなくなったから、お母さんへのヒーリングもすぐしてくれるのだそうだ。
④夫が父と会話していた
私の夫が何食わぬ顔で言う。「お父さんと話した」。驚いている私をよそに、とても普通のことのように話した。夫に霊感があるわけではない。声が聞こえるのは、父だけだそうだ。亡くなる晩の日、夫のところに、父からの強いメッセージが来ていたらしい。「娘(私のこと)を頼む」と。
そして、お仏壇の前で手を合わせて集中すると、聞こえるし、父が今どんな状態なのか、イメージも見えるそうだ。イメージの父はおちょこにお酒をついで飲みながら話しているという。周りにはもう他界した、知り合いがたくさんいるから寂しくないと言っていたそうだ。お酒は今いくらでも飲めるようになったが、控えているとも。
リンゴに浮かんだ文字と、私の手があれからずっと痛いほど熱いのは、お父さんが何かしているのか、と聞いてもらったところ、「知らん。」と返ってきた(笑)。知らんのかい。
⑤夢に父が出てくる。
父が亡くなってから、亡くなる前の父の姿があまりに強烈だったようで、私は病気の時の父しか思い出せなくなっていた。父との思い出が全て病気の時のことになってしまう、、、と悲しんでいた晩、夢に父が出てきた。ビールジョッキを持って、「いえーい」って感じで楽しんでいる。私にもお酒を注いでくれた時、地震が起きて目が覚めてしまった。
⑥お線香の香りがする
お風呂に入っている時、母に遠隔でレイキを送っている時、時々だが、お線香の香りがふわっとした。
、、、と、まあつらつらとまとめてみたが、これらの現象は、49日を境に、だんだんと消えていった。きっと49日の間、父があの世とこの世を行ったり来たりしていたのだろうと、今はそんな風に思っている。父の死を悲しんでいる私に、「お父さんは大丈夫だよ」というのを、何度も伝えにきたのだろう。そして、「お母さんはお父さんが守っているよ」ということも。
私は父が亡くなるまで、目に見えない世界について、信じる信じない以前に、存在を完全に無視していたように思う。
父が亡くなったことにより、亡くなったら、全て終わりではない。ということを実感できた。また違う形で繋がっている。まあ、そんな風にしっかり確信をもって思えるようになったのは、6年経った今、なのだけれど。
父の死は、今後の私の大きな扉を開く鍵となっている。
お父さんと私⑬ 父の葬儀
日記から
一週間経ちました。早いものです。一週間の休みを終え、久しぶりの職場でした。思ったより私は切り替えができるようです。黙々と仕事に励みました。
さて、葬儀について、お話します。
お通夜で100人、告別式で100人、合わせて200人以上の人が来てくださいました。父の会社の貢献がどれだけすごいものだったかというのを物語っていました。
告別式、やはり父の顔を見ると、悲しさがあふれます。涙が止まりませんでした。火葬場で見送るのは、非常に辛かったです。
おばあちゃんにお願いして、何日か、母の元へいてもらうように、私からお願いすると、おばあちゃんは「いいよ」と言いました。それからおばあちゃんは毎日、家の庭の草取りを一生懸命してくれました。
お父さんは天へ昇ったのでしょうか。近くで(遠くても良いから)見守ってくれていると嬉しいです。
ショートケーキを見ると、お父さんがショートケーキを食べたいと言うので買ってきてという母からのメールに、不二家のおいしそうなケーキを買って言ったのを思い出します。あまり食べられなくなってからのことなので、食べてくれたときには安堵しました。今後ショートケーキを見るたびに、思い出すのでしょうか。
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葬儀の日はさっぱりとした晴天だった。
告別式の会場から火葬場へ向かう際、100人もの人が私たちの乗るバスに、手を合わせて見送ってくれた。その光景は映画「るろうに剣心」のラスト、「侍たちに敬礼」のシーンのようだった。
火葬された父の身体は、もくもくと天に昇っていっただろう。
辛かった痛みもだるさも全て、解放されたのだろうか。
納骨の時、形を崩さず、きれいに残った喉ぼとけの骨を見せてもらった。
なぜ、喉ぼとけ、というのか、理解した。その形は、仏様が座禅している姿に見えるからだ。
喉ぼとけの骨を最後に丁寧に納めて、蓋をしてくれた。
お父さんと私⑭に続く
お父さんと私⑫ 納棺式 父の身体に感謝を伝える
映画「おくりびと」で観たことがあったが、亡くなった人のお化粧は、生きている人よりも大切な気がする。
化粧を施してもらった父は、黄疸や抗がん剤治療の際にできたしみがわからないくらいきれいな顔になった。
父に触れる最後の機会だ。私たち家族は、父の腕や足をきれいに拭いてあげた。母が「かたくなったね」と、亡くなった直前はまだ生きているようにやわらかく、あたたかかった手を触って言った。
父に触れると、やはり涙がとまらなかった。
納棺式。父を棺に入れる。すっかりやせ細ってしまった身体だが、運ぶ際には、父の重さをずっしりと感じた。
納棺式後、父が整理しきれなかった大量の写真が書斎にあった。本人はこの大量の写真をアルバムに入れようと、アルバムを購入していた。私たちはその整理を始めた。若い頃の父はとても元気で、楽しそうに仕事をしたり、お酒を飲んだりしている。
棺に納まった父の顔をのぞく。ぽかんと開いていた口と目を閉じてもらい、化粧をしてもらったからか、”魂の抜け殻”という感じはしなくなったからか、父の眠る顔を、悲壮感なく、穏やかな気持ちで見ることができた。
次の日は、葬儀であった。
私は右半身のむずむずとした感覚に悩まされていたところ、ふと、「そうだ。お父さんの身体に感謝を送ろう」と思いついた。
頭 あなたは最期まで父の意識を保ってくれました。ありがとう。
喉 一週間前まで、大変な飲み込む作業をしてくれてありがとう。父は薬や食べ物を身体に入れることができました。ありがとう。
肺 辛かったでしょう。がんがありながらも、入ってきた酸素を頑張って取り込んでくれましたね。あなたのおかげで父は生きていられました。
胃・腸 腸閉塞にならなかったのは、あなたががんばってくれたからです。がんで辛かったでしょうに、ごはんを入れてくれてありがとう。父も食べたいものを食べられました。
肝臓・膵臓 たくさんお酒を飲んでこれたのはあなたのおかげです。薬を毎日飲めたのはあなたがいたからです。
脚 歩くとは、歩けるとは、父にとって、生きる希望でした。細くて筋力のない足になっても、歩いてくれてありがとう。
心臓 おとといまで、毎日、いついあなるときも止まらずに動いてくれました。辛いときには、大きな鼓動になり、止まるもんかと動いていたのを、私は知っています。本当にありがとう。
こういうことをしていると、お腹のあたりのムズムズは、目のところまで上がってきて、涙になった。ああ、私はやっぱり泣きたかったんだ。
身体はもうすぐなくなってしまうけれど、その前に、父のためにがんばってくれて、ありがとうと、言いたくなったんだ。
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日記から
母から、「お父さん、冬のこと考えていたのよ。夏でもこんなに寒いに、冬は寒さをどうしようって。」という話を聞いて、ああ、やっぱり父は生きることを諦めていなかったんだと思い、なんとも言えない気持ちになりました。
父の部屋のほうから、誰かがすっとでてきたり、物音がしたりすると、父がきたのかな、と感じます。母もそうなんだそうです。父がまだこの家にいるのでしょうか。(怖い感じはないです)
私はこの先、できるだけたくさん、母のそばにいてあげようと思います。悲しみ癒されますように。
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お父さんと私⑬に続く
お父さんと私⑪ 父が亡くなった日
明け方母から電話が来た。
父がもう息をしていないので、亡くなったと思う。今先生を呼んでいるので、実家に来てくれないか、という電話だった。
”理解”はしていたが、”受け入れることは難しい”
いや、昨晩はとても落ち着いて、”受け入れて”いた。だから、恐怖に襲われず、眠りについた。
”諦める”とは、”明らかに見る”こと。そんなことを誰かが言っていた。昨晩はそんな感覚だった。
けれど、母からの電話に私は涙がこらえられなかった。
電話を切ったあと、わんわん泣いた。
実家に着くと、看護士さんがもう着いていて、父の身体を拭いてくれていた。
看護士さんは私に気が付くと、持っていたタオルを私に渡し、腕を拭いてあげてください、と言った。
まだ、あたたかく、やわらかい父の手があった。腕だけ見れば、まだ生きている人とそう、変わりがなかった。
けれど、顔のほうは、もう動く気配すらなかった。目は半分開き、口は大きく空いてそのままだった。一生懸命、最期の呼吸をしたのだろう。
私はまた涙が止まらなくなった。母が、「お父さん、頑張ったよね」と声をかけてくれた。
私は自分がなんで泣いているのか、分からなかった。悲しいとか、寂しいとか、そういう感情だったのだろうか。今思い出しても、よくわからない。ただ、お父さんが死んだ、という事実に、泣いていたのだ。
母は葬儀の手続きに追われて、先生たちも帰り、父の遺体と私の二人が、書斎に残った。父の顔を見るたび、涙の波が押し寄せた。
この時、「耳は一番最後まではたらく器官である」ということをふと、思いだした。死ぬ間際、意識がなくても、耳だけは機能している、人の声を聞くことができる、と誰かが言っていたのを思い出した。
手があたたかい今なら、まだ届くかもしれない、そう思った私は、泣きながら父に言った。
「お父さん、ありがとうね」
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日記から
私の中の私へ
誰かに聞いてほしくて、あなたに宛てて書かせてください。
早朝、父が息をひきとりました。「悲しい」とか「寂しい」とか、そういった確かなラベリングはできない感情です。ただ、涙が流れるのです。
亡くなった父の顔は、魂が抜けてしまったように感じられ、「ああ、もう何も応えてくれないんだな」とすぐにわかりました。
母から連絡をもらって、泣きながらもすぐにかけつけ、息はしていませんでしたが、あたたかい父の手に触れました。
まだあたたかいのに、何も応えてくれない。動かない。この現状に、涙があふれ、わんわん泣いてしまいました。
その日に(母方の)おばあちゃん、(母方の)親戚のおばさんとおじさんも来てくれ、家の中は少し明るくなりましたが、私は父のことを思い出すたび、涙がこぼれてくるのでした。
この日の母は、とても強かったです。一番泣きたいだろうに、葬儀の打ち合わせや銀行のことなど、てきぱきと動きました。そして親類はそこにいてくれるだけで心強いです。
とにかく学校に電話と、子供たちの夏休みの宿題を作ることはやっておかなくてはと、涙のあい間あい間に済ましました。
この日は父の顔を見ると、涙が止まらなくなりました。
ベット脇で手をさすったり、お腹にレイキしたり足をマッサージしながら父と話をしていたことを思い出し、思い出すと同時に次から次へと涙があふれてくるのです。
夕食には妹も帰省し、主人も実家に来てくれ、みんなで鍋をたべました。食欲などないかと思っていたけれど、不思議です。この日はみんなよく食べたのです。そしてよく眠ったのでした。
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お父さんと私⑫に続く
お父さんと私⑩ お父さんを看取る
旅館からの帰り道、映画を観て行く予定だったが、私は父のことが気がかりで、とても映画どころではなかった。
旅館を出たその足で、父に会いに行った。
実家には東京に住んでいる妹が来ていた。夕方には信州の方にいる弟も帰省するそうだ。
兄弟がいて少し心強い。母が、父が誰かといれるようにと、書斎に誰もいなくなると、「お父さんと一緒にいてあげてちょうだい」と言った。
書斎で寝ている父は、目は空いていたが、もう視点が定まっていないようだった。目には黄疸が出て黄色くなっていた。腕を何やら動かしている。何をしたいのかは、わからないが、しきりに動かしている。
一日会いに来なかっただけで、こんなに状態が変化するなんて。
時々「うっ」と眉をひそめて、苦しそうな顔をする。母を呼ぶと、「多分痛みを感じているのだと思う」と言い、痛み止めの出るボタンを押す。すると父の顔は数分で穏やかなものになった。
緩和ケアとは、すごいものだ。ひどく辛い痛みを瞬時に取ることができる。
「目が黄色くなっているね」と私が母に言うと、「黄疸が出てきてしまったのよね」と母が父の手を握りながら、少し涙目になって言った。
この時私は理解してしまった。ああ、多分、最期なんだ。
妹は仕事があるので、一旦東京に帰らなければいけなかった。またすぐ呼ぶことになるだろうけど、、と、母は言って見送った。
夕方になって弟が帰ってくるまで、私は父と二人で書斎にいた。ずっと動く腕は、何がしたいのだろう?問いかけても答えは返ってこなかった。ただとにかく腕を動かして布団や繋がっている管を放り投げてしまうので、私がそれを丁寧に戻した。
弟が帰ってきた。小さく「ただいま」と言う弟の声を父は聞き取れない。「耳元で大きな声で言って」と私が言うと、弟がはっきりした声で父の耳に向かって「ただいま」と言った。
その瞬間、一瞬、意識が戻った。父は、はっとして声のする方を向いた。弟を確認すると、「お帰り」と声を振り絞って応えた。
その様子に私は涙が出た。お父さんは、ちゃんとわかっている。誰がいるのか、わかっている。
夜になって私は自分のアパートに帰ることになった。帰るね、と言うと、気を付けて、とまた返事が来た。
その晩、私は妙に落ち着いていた。”納得”はしていなかったが、”理解”はしてしまった。それでも私は、自分のアパートに帰ってきた。特に悔いはないが、もう最期だという直観があったのに、なぜ自分は、実家に残らなかったのだろう、と今でも少し不思議である。
寝る時に、遠隔でレイキを送った。良くなるように、送るのではなかった。”お父さんの身体が苦しまないように、痛みを和らげるように”送った。
この晩、母と弟は夜通し父の書斎にいた。弟は一晩ずっと父の足をマッサージしてあげたそうだ。
この晩は、穏やかに進んでいった。
安らかに、穏やかに、きっと痛みもあまり感じず、明け方、父は息をひきとった。
今振り返ると、父は頑張ってくれたのだと思う。家族が最期、自分に会いにくることができる日まで、魂を身体に入れておいてくれたのだ。
全員に会えた次の日、父は穏やかに眠ったのだった。
お父さんと私⑪に続く
お父さんと私⑨ 看取ることへと気持ちが移行していく
しっかりと記憶していないが、あの晩のあと、点滴やら痛み止めやらいろいろなものをいつでも摂取できるように腕につけていたように思う。
新婚旅行を先延ばしにし、私たち夫婦は結婚して初めての夏季休暇を家の近くの旅館で過ごした。しかし、父の状態に不安もあって、心がざわざわと落ち着かなかった。
父の病気が見つかる直前まで、私は「うつ」と診断され、1年仕事を休職していた。その時、父がNHKでやっていた「ティクナットハン」というお坊さんのドキュメンタリーを観ていて、私も食い入るように観たのを覚えている。
こんな世界があるの?という驚きと、心を患っていた自分への希望のようなものを見つけた。何冊か本を買い、その優しい文と自分を見つめる大切さに初めて触れたのだった。
その後ティクナットハンの教えを深く理解しようとしたわけではないが、彼の本が当時の私のお守りになっていたことは、間違いない。
父の状態に落ち着かない自分に、何かお守りをと思ったのだと思う。私は旅先にティクナットハンの本と、日記帳を持って向かったのだ。
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日記から
右半身がうずうずムズムズを繰り返す。何のサインなのかわからないが、またぶり返してきた。くしゃみを出したいのに、出ない感じ。
近場に1泊2日してきた。最上階に近い広い部屋で、充分に満喫できる場所で、私は昨晩ふと、読み物として、ティクナットハン師の「気づきの瞑想」を選んだのだ。そしてこの日記帳を持ってきた。何か気づきがあると感じていたのだろうか。
部屋について、その本を深い呼吸をしながら読んでいると、胸のあたりがじんじんと痺れ出す。何か涙を流したいような気持にかられる。
本を閉じ、目を閉じて瞑想してみた。父のことが頭に浮かぶ。
旅館についてから、時々思い出していた、信州の家族旅行。
あの頃父は、体調を崩しながらも元気で楽しそうにお酒を飲んでいた。
病気が分かってからも、抗がん剤治療をしながら仕事をつづけた。しんどいながらも出勤し、出張もたまに行った。
そして、身体の無理がきかなくなり、2月、在宅医療へと移った。
抗がん剤という辛い治療に耐えた患者に、「もう手の施しようがない」。その言葉がどれだけ絶望感へと落として行っただろう。
5月ごろはそれでも体調が良く、買いもにに行ったり仕事をしたりしていた。家族みんなが穏やかに過ごせた日々だった。
それが6月中旬から徐々に崩れていった。起きていることができない。トイレに自力で行きたくても行けなくなる。食べられない、飲めない。
できることが減っていった父の気持ちを想像しただけで涙が止まらなくなった。深く見つめれば見つめるほど、その痛み苦しみが伝わり、想像でき、私の心は苦しくなった。けれどもこれは学びなのだと気づいた。
父の痛みを理解しようとすることが、私の学びであり、無理に打ち消したり、切り離したりするのではなく、深く見つめていく必要があると。父のことを思いながらした瞑想の最後には、「今父のために私は何ができるのか」「その答えがほしい」という思いがあることに気が付いた。
ひとつ、今すぐにでも実践できることとして、私がこの旅でもらう「癒し」を父に届ける、という、なんともスピリチュアルな話であった。
ティクナットハンがプライムヴィレッジで、震災で被災した日本を思って食事したという話を以前に聞いたことがあり、それをふと思い出した。ティクナットハンのように、「私が受け取る癒しや快の感覚を最大限に受け取り、それを父に届けること」を実践した。
食事は一つ一つ味わい、急いで食べない。一つ一つ父が食べている思いで、父が食べたいであろうものと残さず食べる。
お風呂では、湯につかる感覚や洗う感覚、身体の湯をふきっとってさっぱりする感覚をしっかりつかんで、父の分まで入浴を楽しんだ。
しかし、お風呂はやはり、よくもわるくも、様々なひらめきが出てきてしまうものだ。
私がうつになった時、母への感謝であふれて止まらない日があった。父に対してもあったが、それでも母ほどではなかった。父については身体の不調をとても心配し、近い将来会えなくなるような不安にかられて何度も泣いた。
それは私の過度な不安症から来るものであれば良かったものの、私が危惧した通り、父は病気であった。
父への感謝は、この病気を通して学べということなのだろうか。ふとそんなことを思ってしまった。どうして私の学びのために、父が病気にならなければいけないんだ。あんまりじゃないか。
そして思い出す。「孫の顔くらいは見たいな」。切実な父の言葉。
父は何一つ、諦めていないと思う。辛い体を起こし、この間までトイレに自力で行こうとしていた。周囲が無理だということも、やろうとしていた。
それでも身体が動かない、どれだけ辛いだろう。やはり私はまた泣いてしまうのである。
しかし、午後の瞑想中、悲しみが通りすぎて落ち着いた時、私は確かに、悲しみや苦しみ以外の、泣きそう感覚を感じたのだ。きっとそれは「慈愛」。私の中にある「慈愛」に触れたからなのだと、その時感じた。
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お父さんと私⑩に続く
ティクナットハンさんが私の新しい世界を開いてくれたと思っています。深く感謝します。ご冥福をお祈りいたします。本当にありがとうございました。