ほしのすみかにかえるとき☆彡☆彡

☆彡自分に戻っていくまでの軌跡☆彡

🎥マンスリー映画鑑賞 「禅 ZEN」

年前、この映画を観て、涙を流すことになろうとは、誰が予想していただろうか。

 

数年前の私なら、道元禅師の生涯を描いた、と、いうだけでもう観る気が失せていただろう。私には到底理解できない世界だと思っていたからだ。

 

毎日座禅をし、定期的に説法を聞く中で、理解できることがいつの間にか増えていたのだ。

 

道元禅師の思想には、私にたくさんのことを教えてくださった先生の教えがたくさんちりばめられていた。

 

鎌倉時代。戦が続き、天下とりが盛んになり、貧困の差も大きくなっていった時代。極楽浄土にすがりたくなる大衆たち。そのような時代に、道元禅師は生まれ、修行を行った。その人柄も悟りも、どれも胸を熱くさせる。

 

どんな過去があろうと、どんなことをしていようと、どんな人(人以外のその他すべてのもの)にも必ず仏が存在する。ということ。

 

善悪の判断を捨て、悟りたいという執着を捨て、ただただ、座り、あるがままの自分に気が付いていく、ということ。

 

怨霊の苦しみは、憑かれた自分自身の苦しみだと受け入れること。

 

生活の全てが禅であり、修行であるということ。

 

悟りとは無限にあり、悟りきることはできない。だからこそ、修行を続けていくべきである、ということ。

 

多くの人に人気が出なくてもいい。大衆に広まらなくてもいい。ただ、本当の釈迦の心を理解できる人を一人でも育て、教えを受け継いでいけるようにという道元の思い。

 

権力も財宝も死ぬときには持っていけない。持っていけるのは、自分がどんな行いをして生きていたか、それだけである。

 

娼婦をしていた自分を捨てきれないおりんへの言葉。

 

欲のある自分に気が付き寺を出てしまう俊了にも、いつだって戻っておいでと声をかける。

 

そこには、「誰の中にも仏がある」という道元の悟りがあるからでしょう。

 

おりんの子が亡くなった時、おりんがぐったりとして寺に来た時、その辛さをわが身のように感じ、泣く道元禅師の姿。

 

道元が亡くなった後、弟子たちが教えを守り生きていく姿、教えを広げていく姿。

 

最後、出家したおりんがこどもたちに坐禅を教えているシーンは、なぜだか涙がと止まらなかった。そこには、何の救いも求めず、悟りたいという執着もない、ただただ坐るこどもたちの姿があった。

 

坐禅の基本姿勢では両手で輪を作る。この中には神様がいるから、しっかり守るようにおりんが言うと、「雨が降っているから」と片手を傘をつくり、神様を雨から守ろうと考えた子がいた。なんだかもう涙だった。

 

特に私は熱心な宗教者ではない。だけれども、この世界には見えない力が働いていて、何に生かされているのか、と問われたとき、やはり私は「神様」という存在を否定することは、もうできないなあと思う。

 

この映画を観て全てがわかるわけではないですが、道元さんの素晴らしい人柄、命を懸けた説法には、心を揺さぶられる人が多いのではないのでしょうか。


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仏教に興味がなくても、是非観てみていただきたい映画です。