ほしのすみかにかえるとき☆彡☆彡

☆彡自分に戻っていくまでの軌跡☆彡

お父さんと私④ こどもの結婚ほど切な嬉しいことはないのかな

夏頃の検査結果で、がんが小さくなっていることがわかり、父本人にも、家族にも安堵感が広がった。腫瘍マーカーの数値もだいぶ減った。

父は体調を崩す前まで、「和楽器バンド」をよく聞いていた。和と洋の融合した、新しい音楽に魅了されていた。毎日のように大音量でかかっていたこともある。退院してきてから、それがパタリと途絶えてしまっていたが、このころまた和楽器バンドを聞いて仕事している。その様子を見て私は少しほっとしたのを覚えている。

相変わらず抗がん剤治療の副作用はひどいので、何を食べても変な味がしたり、手先の感覚がおかしいかったり冷えすぎたりするので、手袋をはめてパソコンキーを打ったりしていた。

私はというと、やはり体に良いことをと思い、レイキを習いに行ったり、ビワの葉が毒素を出すのに良いということで、ビワの葉の温灸を母にすすめたり、とにかく身体によさそうなものをたくさん用意した。

父にしても、私たち家族にしても、何もできずに、ただ薬の効果を待つよりも、やってあげられることがある、自分でできることがある、というのは、その効果がいくばくのものか、ということは置いておいて、毎日の救いだったなあと思う。

この年、私たちは挙式を挙げることにした。入籍は半年前に済ましており、私たち二人としては、挙式をする気はなかったのだけれど、父にやりなさいと言われたら、やっておいたほうが良い気がして、行うことにした。父と私の体力を考えて、夏に挙式を親戚内で挙げ、披露宴は職場の方や友人等を呼んで冬に行うことにした。

父から「バージンロードと親への手紙は禁止」と、16歳の時から言われて育ってきたので、特段それをやりたいという気持ちもなかった。私たちは迷わず和装での挙式を選んだ。

当日、モーニングを着た父の姿は、やせ細っていた。義父と並ぶとそのひょろひょろとした姿が余計に目立った。身体の体調は良くなかっただろうけれど、挙式の日の父は穏やかに嬉しそうだった。自分の幸せな姿が、人のことを幸せにできるんだなあ。

冬の披露宴では、身体が冷えないか心配だったが、なんとか最後まで席にいることができた。手紙を読み上げることは父から禁止されていたので、最後に渡す花束のと一緒に、手紙を渡すことにした。

その時自分がどんなことを書いたか、細かくは覚えていない。ただ、自分に子供ができたときのことを書いていたと思う。もし私の子供ができたら、私も父も好きな絵本「とっときのとっかえっこ」の「ネリーとバーソロミュー」みたいに仲良くしてねと書いたのを覚えている。

人を幸せにする方法は、人に何かしてあげるだけではなく、自分が幸せな姿を見せることでもできるのだと思った。

 

なんだか平和だった。ころころ平和が戻ってきた。

sumika