ほしのすみかにかえるとき☆彡☆彡

☆彡自分に戻っていくまでの軌跡☆彡

お父さんと私⑮ 深い悲しみの中

49日の間、私は悲しみというものがそれほどなかった。
しっかり泣いたのが良かったのかな。

そんな風に思っていたが、49日を過ぎた頃、猛烈な悲しみが押し寄せてきた。
仕事をしていても、ふと気が緩んだ瞬間、
父の苦しんでいた顔を思い出し、
ボロボロと涙がこぼれた。

父は今、どこで何をしているのかと、考える日も多かった。

周りの人に話しても、
「まだ引きずってるの?前を向かなきゃ!」
そのようなことを言われるばかりで、ずっと悲しみの中にいる自分がおかしいんだと思うようになって、人に話すのをやめた。

「家族は永遠だからね。今もそばにいるし、また生まれ変わって出会えるのよ」そんなことを教えてくれる人もいたが、実感が湧いてこなかった。実感が湧かない言葉は、言葉を超えることができない。知識で入れても、なんの救いにもならなかった。

こんな私を心配してか、父は私の夫と未だにコミュニケーションが取れていた。お仏壇の前で手を合わせると、夫と父は話をする。
それは嬉しいことではあったが、このことを周囲に話すと、人によっては怖がる、ということも知った。だからもう話すのをやめた。
夫と話ができるのはありがたいことではあったが、自分自身が父と話していないので、やはり寂しさがあり、納得のいかなさもあった。

身近な人の死というのは、みんな、経験してみないとわからないのだ、と知った。だから、誰かとこの気持ちを共有したいという思いも、諦めた。周りにそのような境遇の人がいなかったから。

そうして、孤独になった。私の悲しみは、私にしかわからない。私のことをなんて、誰にも理解してもらえない。

とてもとても深い悲しみの中にいるのに、誰にも心を開くことをしなかった。「怖い」と言われ、「前を向け」と言われ、「家族は永遠」だと諭される。そんなものは、あの時の私にはどれも必要なかった。

仕事を無理にでもやめさせれば
抗がん剤の治療を拒否していれば
私にはもっとできることがあったんじゃないか
もっと治療法を探していれば

あの時精一杯やったことですら、全てを否定して、「こうしていれば、もっと違ったんじゃないか」という
病院を責め、
父を責め、
母を責め、

最終的には、自分を責めていた。

父がこんなこと、望んでいないのは、充分承知だったけれど、父のことを思えるほど、この時の私には、余裕がなかった。

あの世の存在もこの頃はまだ、明確ではなかった。死んだ人がどのようになるのかも、興味が湧かなかった。死んだら、終わり。そういう意識でいたように思う。だから、空虚感が酷かった。

ただただ、
父が苦しんで死んでしまった。
まだ若いうちに死んでしまった。
かわいそうだった。私はなにもできなかった。
この感情と思考の中から、抜け出すことができなくなった。

じわじわと訪れた悲しみの波にのまれながら、日々を生きていくしか、できなかった。