ほしのすみかにかえるとき☆彡☆彡

☆彡自分に戻っていくまでの軌跡☆彡

お父さんと私⑥ がんと向き合う 終末医療と向き合う

父が抗がん剤治療を終了させるということは、延命治療をしない、ということで、一般的には、近々最期に向かっている、ということになる。

父の母(私のおばあちゃん)には、弟がいる。私は会ったことがないが、健康に問題があるという理由で、仕事に就いたことがない。祖母は生前、弟の生活を援助していた。祖母が亡くなってからは、祖父が援助していたのだろうか。詳しくはしらないが、生前、祖父は父に、「あいつのことは構うな」と言っていた。援助はしなくていいと。しかし父は、毎月アパート代、生活費を忘れず送金した。それは病気になっても変わらなかった。

私たち家族は、良い気持ちはしなかった。なぜ、父が、という思いが強かった。あちらからの連絡は全くないのに、なぜこんなことを続けるんだろう。でも父からしてみたら、母親にできる孝行を、今必死にやっている、という感覚なのかもしれないな、とも思った。

最期が近くなるということは、身辺の環境を整理することになる。父はもう援助ができない、という旨を手紙に書いて送り、それきり関係はなくなった。こちらの連絡先は伝えてあるが、未だに連絡は来ていない。多分、もう来ないだろう。なんとなくわかっていた。私はこれでいいと思った。日本には生活保護という制度がある。その気になれば、働かなくても最低限の生活は保障されている。そう、その人がなんとかしようと少しだけ動けば、なんとかなる。その人にとっても、その方が良い、とさえ思っていた。

父が家に帰ってきた。家のトイレやお風呂には、簡易用の手すりがつけられ、父の書斎には介護用ベット、職場で使っていたパソコンが入れられた。

久々にお風呂に入れると、父は嬉しそうだった。

春になり、あたたかくなっていった。

父の体調はとても良かった。毎日仕事をして、何日もかけて部屋の隅々を整理した。父の書斎には、何百冊の本、何十ものCDやレコード、カセットテープがある。父に「〇〇っていう本読みたいんだけど、持ってる?」と聞くと、たいていは持っていて、貸してもらえる。(私と父の本の趣味が合っているということもあるけど)そのくらい大量の本が書斎の本棚に所せましと並んでいた。

父独自のカテゴライズの仕方で整理していたので、他の人が一目見てこの本がどこにある、ということは分からないのだけれど、全ての本やCDが、棚の中に綺麗に納まり、今も書斎はそのままになっている。

こうして父は身辺整理をしながら、自分のペースで仕事をし、母と一緒に散歩や買い物をした。

私も頻繁に実家に行くようになった。行った日にはレイキをしたり、マッサージをしたりした。父の日には、肌触りの良い、父が好きそうなバスタオルをプレゼントした。

そう、父は病気になってから、よく「ありがとう」と口に出して言うようになった。私が何かしてくれるとありがとう、と必ず言った。昔はありがとう、なんて言葉、父から聞いたことなかったのに。

それから、テレビもたくさん見れるようになっていた。以前はニュース番組くらいしか見なくて、子供の頃は流行りものの番組はことごとく見せてもらえなかったけど(理由を聞いたら「嫌い」だからと返ってきた(笑))、気が付けば、さんまさんやタモリさんの番組を見ている。

本人も「こんなのも見れるようになったな」と気が付いていたようだ。

そんな風に、父は自分の最期と向き合う時間が始まった。

けれど私たち家族は、体調が戻っていく父に対して、最期が近づいているようには感じなかった。

むしろ、抗がん剤治療を止めてからの方が元気になっていたし、白髪になっていた髪も黒く戻ってきて、希望を持っていた。また一時の間、穏やかな生活が戻った。

私はこんな穏やかな日が、もっともっと続いてほしいと願った。

今思えば、これは神様が私たち家族や父自身にくれた、最後の穏やかな時間だった。

お父さんと私⑦に続く